平泉で松尾芭蕉『奥の細道』を探訪しよう

平泉は平安時代の終わりごろ、奥州藤原氏によって仏教の浄土思想を基にして造られた都です。
藤原清衡・基衡・秀衡の三代に渡って中尊寺、毛越寺、平泉館などが築かれ、東北の地で栄華を極めました。

しかし、たった約100年で奥州藤原氏は滅び、都としての平泉の歴史も同じように100年で終焉を迎えました。

現在の町の様子

奥州藤原氏の滅亡から500年後。
時は元禄2年(1689年)の江戸時代、かつての栄光を失っていた平泉を江戸から44日かけて訪れた人物がいました。
その人物こそが、俳人・松尾芭蕉です。
松尾芭蕉は弟子の河合曽良を連れて、約150日間におよぶ長い長い「おくのほそみち」の旅に出ました。
当時、芭蕉は46歳、曽良は41歳だったと言われています。
江戸を出発して東北・北陸地方を周り、旅の詳しい様子と各地で詠んだ俳句をまとめた、いわゆる旅日記にあたるものがかの有名な「奥の細道」です。 

「奥の細道」には平泉に滞在したときの様子が書かれています。
そして、平泉にて芭蕉は後世にも残る2つの有名な俳句を残しました。
現在の平泉には芭蕉の詠んだ句が刻まれた石碑がさまざまな場所に置かれています。

①「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」

高館からの景色

この俳句は、芭蕉と曽良が平泉で最初に訪れた高館で詠んだ句と言われています。
この高館は、平泉で自害したと言われる源義経の居館があった場所です。
朝廷からはるか離れた東北の地に築かれた、かつての壮麗な都の面影は消え去り、高館からは北上川と東稲山、田園風景が見えるばかり。
芭蕉にとっても平安時代の出来事は遠い昔のはなしだったことでしょう。
500年前の平泉に思いを馳せて詠んだ一句が「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」でした。

毛越寺にある句碑

現在、芭蕉の句碑が高館と毛越寺の敷地内に建てられています。

②「五月雨の ふり残してや 光堂」

中尊寺にある松尾芭蕉像

この俳句は、中尊寺の金色堂を見て詠んだ句です。
高館を訪れた芭蕉と曽良は、伝え聞いていた光り輝く金色堂を実際に見ようと中尊寺へ参詣に訪れました。
芭蕉が平泉を訪れた時期は5月13日と考えられており、ちょうど五月雨の時期だったのでしょう。

実は、芭蕉が参詣したときの金色堂は、現在の金色堂と少し様子が異なります。
今見ることができる金色堂は、1962~1968年にかけて行われた昭和の大修理によって蘇った姿なのです。そのため、芭蕉が参詣した金色堂は今よりも朽ち果てた様子だっと想像されます。
また、現在の金色堂の覆い堂は1965年に建てられたものです。芭蕉が見たであろう覆い堂は、鎌倉時代に北条氏によって建てられた覆い堂だったと思われます。
そんな金色堂の姿を見て、芭蕉が詠んだ句が「五月雨の ふり残してや 光堂」です。

現在、中尊寺の敷地内に芭蕉の句碑が建てられています。

平泉の田園風景

どちらの句も哀愁を感じる句ですね。
平泉を訪れた際は芭蕉が見た景色を眺めながら、俳句が詠まれた背景を知るのも面白いと思います。

もしかするとみなさんも平泉で一句詠みたくなるかもしれません。
そんなときは、このサイトに載っている俳句の作り方を参考にするのがおすすめです。
ハイ!一句 -平泉で俳句たび-https://hi-ikku.com/

ハイ!一句 公式サイト

今から約330年前の1689年、松尾芭蕉と曽良の二人が平泉を訪れたのは5月ごろでした。
ぜひみなさんも芭蕉たちと同じ5月に平泉を訪れてみませんか?

ちなみに、5月ゴールデンウィークには平泉で春の藤原まつりが開催されます!昨年の様子はこちらから。
今年の春の藤原まつりの情報が発表されましたらブログでも紹介したいと思います。お楽しみに!

【参考】
中尊寺公式サイト https://www.chusonji.or.jp/know/history.html
ハイ!一句公式サイト https://hi-ikku.com/
朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASL9H6WGJL9HUJUB00B.html